ダイヤモンドならタカラ貴宝営業時間電話FAXメール
トップページ ダイヤ価格表4C順 ダイヤ価格表価格順 指輪デザイン ペンダントデザイン ピアスデザイン 結婚指輪 エタニティリング
ショッピングガイド ダイヤの選び方 メンテナンス コラム リフォーム 本音でQ&A お客様の声 お問い合わせ 当社について
コ ラ ム


























































9.なぜ 日本人はプラチナが好きなのか?

 日本は世界でも、プラチナ・ジュエリーの人気が突出して高い国です。
 日本人が実際にジュエリーに出会ったのは明治維新後のことと言われており、宝飾品の歴史は西欧をはじめとするジュエリーの先進国に比べると非常に短いと言えるでしょう。

 一方プラチナという貴金属も、広くジュエリーに用いられるようになったのは、西欧でも20世紀からという比較的新しい素材です。

 ところが不思議なことに、西欧でプラチナ・ジュエリーがやっと登場した19世紀末に、日本人はプラチナの美しさをもうすでに知っていました。
 事実、明治時代中期の文学作品にはプラチナが登場しており、数々の文献から、明治の人々がプラチナは稀少価値の高い貴金属で、その白い輝きは地味なからきわめて高価であるというイメージを抱いていたことを窺い知ることができるのです。

 明治以来現在に至るまで、日本は一貫してプラチナを憧憬と賞賛の目で見てきました。
 そうしたプラチナのイメージは、日本人の間にいつどのように形成されるようになったのでしょうか。プラチナが日本に浸透していった経緯をたどりながら、プラチナが日本人にかくも愛されるようになったのか、その理由を探ってみたいと思います。

プラチナ・ジュ工リー草創期  明治初期〜中期

  「ドラ息子、胸にフラチナ時計かけ」
 (注・明治のはじめにはフラチナと記載されていました。明治中期から大正期に入ってプラチナまたは白金と表記されるようになります。)

 この川柳が新聞に掲載されたのは、なんと明治12年(1879)のことです。これはプラチナがどれほど高価な貴金属であるかが、明治もごく初期の頃から、一般に知られていた事実を裏付けています。そもそも日本人が初めてプラチナに出会ったのは、江戸時代末期の1862年、幕府が派遣した遣欧使節がロシアでプラチナ塊を見たときとされています。

 その後明治時代になり、時計店や地金商が本格的にプラチナを輸入し始めたのが、明治20年代と言われていますから、この川柳の登場は驚くべき早さです。おそらく洋行帰りの人がプラチナを持ち帰り、そこから認識が広まっのでしょう。

 明治維新後の混乱の中、実業の世界を足がかりにのし上がった新しい富裕階級が出現します。彼らは旧時代の価値観にとらわれることなく、西欧文化を思想や技術面のみならず、生活の趣味にまで率先して取り入れました。冒頭の川柳は、そんな新興階級に対するいささかのやっかみをこめて詠まれたものです。

 彼らばかりでなく、新しい時代に魅せられた新時代の男性たちにとってのステイタス・シンボルは、時計とそれをぶら下げる鎖でした。その中でもとりわけ羽振りの良さを象徴したのが、当時からきわめて高価だったプラチナ側(時計の機械部分を納めるケース)の時計やプラチナ製の時計だったのです。
 プラチナがステイタス・シンボルとなったのは、何も価格の高さばかりが理由ではありませんでした。明治24年(1891)に宝飾職人の元祖ともいわれた村松万三郎氏が、初めて日本でプラチナの溶融に成功しますが、それ以前からプラチナは溶融がむずかしく、またそれゆえに価値が高いということを明治の人々は知っていました。

 それを表しているのが、当代随一の人気作家、尾崎紅葉が明治25年(1892)から新聞で連載した「三人妻」いう小説です。これは明治の混乱期にのし上がった一人の男性が、財力と権勢にものを言わせて、三人の愛人を囲うというストーリーですが、その最初の女性である芸者の才蔵に、紅葉は「白金と人にいはるる女」という讃辞を捧げています。
 才色兼備で、金や権力だけでは男性になびかず、自信に溢れ、常に毅然とした姿勢を崩さない才蔵に、紅葉は「簡単には(男性の財力やロ説きに)融けない」、「とびっきり高級」というプラチナのイメージをかぶせたのでしょう。
 そして彼女の凛としてクールな容貌も、プラチナのイメージにびったりだったのではないでしょうか。金も権力も手に入れた明治の男が喉から手が出るほど欲しかったのは、ワンランク上の価値を持つプラチナのイメージを持った女性だったのかもしれません。

 当時はプラチナを実際に身につけた人はもちろんのこと、実物を目にすることができた人もごく少数だったはずです。
 19世紀末の日本で、ジュエリーというものをようやく知り始めた日本人の頭の中に、プラチナは強烈なイメージ喚起力を持って認知されていくのです。

開発期   明治末期〜大正

 明治の終わりから大正にかけて、それまで指輪さえもはめたことのなかった日本人の間に、急速にジュエリーが浸透していきます。
 本格的に贅沢なジュエリーを買うことのできる人は未だほんの少数でしたが、ジュエリーは人々の手の届かない遠い世界の未知の事物でなく、憧れをこめて「いつかもしかしたら身につけることができるかも知れない」と夢見ることのできるまでに身近なものとなってきていきます。

 明治の半ばより、指輪や帯留、笄や簪といった髪飾りをはじめ、時計や鎖などの広告が、新聞や雑誌に頻繁に登場しました。また銀座などの繁華街に宝石店が店を出すようになり、道行く人がショーウィンドーの前でため息をつく光景も見られたようです。

 ちなみに日本で最初にプラチナの広告が掲載されたのは、明治13年(1880)。横濱コロンという会社が、プラチナの他、金や銀の時計や錺り物類の広告を出しています。
また明治26年には、銀座の宝飾店「天賞堂」が、プラチナまたは金に高彫り(注・動物などを浮き出すように彫る技法)をした帯留の広告を掲載しています。

 仏教の法典に「金剛石」と書かれていたダイヤモンドの輝きも、この世の現実のものとして人々の目を驚かせます。明治30年から35年 (1897ー1902)にかけて新聞に掲載された尾崎紅葉の『金色夜叉』や、同40年(1907)に連載が開始された夏目漱石の『虞美人草』には、お宮が心を奪われたダイヤモンドの指輪をはじめ、時計や髪飾り、帯留など数多くの宝飾品が登場して、ジュエリーに対する読者の関心をいやかがうえにも煽りました。
 しかも人気の連続小説にあやかつて「虞美人草指輪」が売り出されるなど、ジュエリーは話題性のある商品となりました。折からの日露戦争の好況に湧くこのの時代に、世の中ではちょっとしたジュエリー・ブームが引き起こされたのです。

 ダイヤモンドの値段が明治44年(1911)の資料によれば、1力ラットで450円。同じ年に出された銀座天賞堂の営業内容では、プラチナとダイヤの帯留が235円とされています。エリートの高給取りだった銀行員の初任給が40円だった時代です。ちょっとやそっとでは買える値段ではありません。それにもかかわらず、ジュエリーは思いもかけないスピードで、人々の身近なものとして浸透していき、それにともないプラチナのイメージも固まっていくのです。

 それを象徴するような事件が、明治42年の新聞で報じられています。「仕立屋銀次」という呼び名の日本一のスリの親分が警察につかまりました。
 連行されるときの銀次の出で立ちは「本フランネルのひとえの和服、ねずみ色のちりめんの兵児帯に紺たびをはき、黒の山高幅をかぶり、左のくすり指にプラチナの指輪をはめ、甲斐絹細巻きの洋傘を持って、一見立派な紳士風」だったそうです。
 和服に山高帽と洋傘という日本と西欧の混合スタイルは、時代の先端をいくトップスタイリストの服装だったのでしょう。その伊達男ぶりを強調しているのがプラチナの指輪です。
 大物スリが相当に荒稼ぎをしていたことばかりでなく、なかなかの枠人であったことまでがプラチナの指輪からうかがわれます。
 スリでさえも、というべきか、スリだからこそ、というべきか、とにかく明治の紳士の出で立ちには、プラチナの指輪がしっくりと似合っていたことは確かでしょう。
 なお、仕立屋銀次は1955年大映映画「七つの顔の銀次」として、銭形平次シリーズで当時人気絶頂の長谷川一夫が演じています。

 そして大正時代に入り、鉄道が通り、自動車が走り、ラジオや映画などが発達して、機械文明が人々の生活を大きく変えていく中で、大衆は一種のモダニスムにとらえられます。都会にたくさんできたダンスホールでは男女がジャスに合わせて踊り、銀座の通りには最先端ファッションに身を包んだモダンガールやモダンボーイが注目を集めました。

 いささか退廃的な耽美主義に浸っていたこの時代の空気を描いた画家で詩人の竹久夢ニは、懐古趣味と異国趣味あふれた美人画で人気を集めます。
夢二は死ぬときに、愛する妻と自分の名前を彫り込んだプラチナの指輪をはめていたと伝えられています。

白金之独楽 また大正3年(1914)には、詩人の北原白秋が詩集『白金之独楽』を刊行しました。
 白秋はプラチナの輝きを、日光や仏像の後光になぞらえ、神聖で高貴、森羅万象の源でありエネルギーであるとしています。彼はプラチナの輝きに、現実の物質世界、つまり俗界に対する、精神世界を見いだしました。

 また宮沢賢治も大正の終わりに「白金ノ雨」という詩を書いていますが、そこでもプラチナの輝きが日光を受けた雲塊の輝きになぞられ、また触媒としてのプラチナのエネルギーが詠われています。

 機械化や都市化は人々の生活を大きく変えますが、プラチナはそのエネルギーや精神性をどこか象徴するものであったのです。

発展期  大正末期から昭和初期にかけて
      モダンな感性と日本の伝統がプラチナで融合

 大正から昭和のはじめにかけて、人々はおもにファッションの面で自分たちの好みのデザインや趣味の方向を再確認するようになります。
 鹿鳴館の時代から明治の半ばまでの西欧趣味一辺倒に対する反省から、白本の伝統にうまく西欧の事物をマッチさせていこうという気運が見られるようになったのです。
 ジュエリーも例外ではありませんでした。ジュエリーというと洋装につけたと思われがちですが、日本のジュエリーを発展させたのは大正から昭和にかけて数々考案され普及した、和装に似合う和装のためのジュエリーだったのです。

 明治後期より相次いで発刊された、天賞堂やミキモトといった有名宝飾店のカタログを見ると、掲載された多彩なジュエリーに驚かされます。
 そしてもう一つ目を惹くのが帯留、簪、根付け、時計をぶら下げる短鎖といった和袋のための日本独特のジュエリーです。
 和装のジュエリーの人気は、指輪と並んでいました。男性用にも時計や時計鎖ばかりでなく、羽織紐代わりの鎖や方針メダルと呼ばれた磁石など、日本独自の宝飾品が紹介されています。そこに見る意匠も、鶴、とんぼ.御所車や桜といったきわめて日本的なものばかり。

 優美な曲線を描くアール・ヌーヴォー様式や、直線的でモダンなアール・デコ様式など西欧で流行したデザインの影響を受けながら和装に合うテイストが融合され人気を集めるようになったのが、この時代の日本のジュエリーの大きな特徴でした。そしてそれがまた、日本のジユエリーを発展させる原動力となったのです。

 当時からプラチナ・ジュエリーを大いに普及させたのが、芸者さんたちでした。容姿が美しいばかりでなく磨かれた芸の持ち主で、当代一流の人々との交流によって教養も高かった人気者の芸者さんたちは、持ち運びのできる財産として、そしてまた身につけて楽しむことのできるものとして一挙両得の価値をジュエリーに認めていました。
 日頃から美に対する見識が高く、身を飾るものについて目が肥えていた彼女たちは、金ほどぎらぎらとせず、地味な輝きながら趣味と品の良さをアピールでき、しかも非常に高価で財産価値が高いという理由でプラチナを選んだのです。
 カタログにみるプラチナ・ジュエリーの人気の高さは、たとえば芸者さんたちのこういったテイストによって支えられていました。

 プラチナ・ジュエリーの人気を支えたもうひとつの要素が、技術力とデサイン力の発展です。
 ミキモトは意匠デザインの開発に大きく力を入れ蔵前にあった東京高等工業学校を卒業し織物図案にたずさわっていた淵江寛氏を迎え、本格的に宝飾図案の開発と発展に取り組む体制を作りました。
 この淵江氏を始め、ミキモトの優秀な図案家たちは西欧の流行を取り入れながら、日本独自の宝飾の意匠デザインを発展させていきます。

 一方技術面でも明治43年(1910)にミキモトは小林豊造工場長のもとでプラチナ張りの十五金(注・K15、純度62.5%、豊かな色沢が得られ真珠の爪止めに最適だが現在では使われていない)地金を開発し、 本格的なプラチナ・ジュエリーの製造に乗り出すきっかけを作りました。
 真珠の輝きを引き立てるためのプラチナの加工技術の下地が整ったところで、ミキモトの優れた意匠デザインが日本のジュエリーのレベルアップに大いに貢献します。
 明治41年(1908)に創刊されたミキモトのカタログ冊子「真珠」は日本の宝飾デザインに大きな影響力を持ちました。
 昭和12年(1937)にパリ万国博覧会にミキモトが出品したプラチナ製の帯留「矢車」は、海外において日本のジュエリーの水準の高さを認めさせるものとなりました。

ティアラ .こういった背景をもとに、大正から昭和にかけてプラチナ・ジュエリーが一気に大きく花開いていきます。ミキモトのカタログ冊子「真珠」をはじめ当時の広告やファッション記事からその勢いがうかがえますが、何といっても人々にプラチナの美しさを印象づけたのが、大正6年に貞明皇后がおつけになった初めての国産のティアラでした。
 プラチナの地金の上にダイヤモンドをちりばめたミキモト制作のティアラの輝かしさは、多くの人々の目を射ったにちがいありません。

 そのころ西欧で大流行し、日本にも及んだアール・デコとよばれる直線的でシャープなデザイン様式を表現する上でも、プラチナの白い輝きは欠かせませんでした。
 「モダン」を象徴するアール・デコのデザインはきわめて日本的な帯留などのジュエリーの数々に取り入れられ、大正モダンと呼ばれた時代を彩りました。
 当時のカタログを眺めるとプラチナの輝きは、モダンなデザインと、日本の伝統的趣味を融合させるのにぴつたりだったことがよくわかります。

そして普及期へ  −戦前戦後−  日本文化に深く浸透
 昭和に入り、戦争の足音が近づくにつれて日本のジュエリー業界は「暗黒の時代」を迎えます。
 昭和13年(1938)には、金やプラチナの一般使用が禁止され、同15年にはジュエリーの製造販売が全面的に禁止されます。
 しかしその直前の昭和11年、政府の肝煎りで「国防指環」というプラチナの指輪が売り出されました。
 これは軍需物資としても重要なプラチナを国民に購入させ 民間に備蓄させようという国策によるものでした。
 ところが後に、国民は「供出」という形で、国に所有するジュエリーを提供しなければならなくなり、当然「国防指環」も国に回収されています。
 同じ目的で「白金章」というプラチナメダルも昭和11年(1926)に発売されています。政府は戦争中何度もプラチナ製品を回収するための法令を出しますが、これによってますます国民の間にプラチナは貴重な金属だということが植え付けられたのでした。
美智子妃殿下
 戦後しばらくして生活が安定するに従い、戦争によって抑えつけられていた反動からか、日本人のジュエリーに対する関心は強まります。
 ブームの火付け役となったのが、昭和34年(1959)現天皇の御成婚の時の美智子皇后がおつけになったダイヤモンドとプラチナのティアラでした。

 やがて、デ・ビアスの「婚約指輪は給料3ヶ月分」というCMがテレビや映画館を通じて流され、婚的指輪にダイヤモンドとプラチナの指輪を贈ることがごく一般的に普及していき、現在のように社会的慣習にまでなります。日本人のプラチナ愛好は、こうやっていよいよ数字に表れるほどになったのです。

 これまで見てきたように、日本人はプラチナに対し特別な愛着と強いイメージを持っています。
 それではプラチナが日本人の美意識のどこを刺激したのでしょうか。その答の一端を、日本の歴史全般にわたって広範な思索を著してきた吉田光邦の名著『日本美の探求−その背後にあるもの』(日本放送出版協会)に見つけることができます。

 吉田氏は農民からのし上がった征服者である豊臣秀吉と、彼の信任を得た利休との関係に着目し、日本人の心を揺さぶる美の二面性を説いています。
 吉田氏は「金碧の世界、権力と財力にみちた現実的な世界に対応する精神世界の強調、豪奢な物崇拝に近い装飾性に対しての簡素な抽象性、金具のさんらんと打たれた宮殿に対してワラぶきの農家の匂いをたたえる茶室の空間、どれも巨大な力を持った征服者の存在を、逆に誇示する物なのであった。征服者の中にある二面性、素朴さと文明へのあこがれを表現するもの」であったと書いています。
 つまり、日本人は権力や財力を誇示しようと、金碧で飾り立てる現実世界の美にも魅了され感動するし、一方、簡素で抽象的な美を追究する精神的な世界にも強く惹かれる。それが日本人の美に対する二面性だというのです。

 プラチナ・ジュエリーはゴールドと比較するとその輝きは地味で、素朴な美しさを誇っています。北原白秋や宮沢賢治はその簡潔さに精神世界を見たのではないでしょうか。

 そしてまた日本文化について造詣の深いドナルド・キーンは、外国人の目から見た鋭い日本人論である『日本人の美意識』の中で、日本人が好む素朴さや質素を、「控えめな贅沢」という言葉で表現しています。それは「簡単に得られる贅沢を拒否し、黄金色に輝く新しい茶釜よりは、物寂びた小屋を賞でる心」であり、「富が目立つことを避けるためへの配慮」であるとしています。
 これは谷崎潤一郎がその著名な随筆集『陰翳礼賛』で指摘した「われわれは一概に光るものが嫌いという訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む」ところに重なります。

 プラチナは非常に高価でしたが、その輝きは簡素で地味だと思われました。
 その一見矛盾するかのような二つの性格が、吉田光邦が述べる「素朴さ」に、キーンの「控えめな贅沢」に、谷崎潤一郎の「沈んだ翳り」にそれぞれ通じ、日本人の美意識をいたく刺激するものであったのです。

 そして日本でプラチナが定着していったもう一つの理由としては、ダイヤモンドへの憧れがプラチナの人気につながったことが挙げられます。
 生活が近代化し、電灯が晋及したり洋式のライフスタイルが取り入れられたことで、ダイヤモンドの輝きの美しさを誰もが認めることができるようになりました。

 西洋でも日本でもダイヤモンドの輝きを最もよく引き立てるのがプラチナであるという認識があり、日本人の頭の中にプラチナとダイヤモンドがセットになって憧れの対象として刷り込まれたのです。
 戦前は大多数の人が持つことのできなかったダイヤモンドとプラチナが、戦後豊かになった日本人の間に婚約指輪として急速に誓及するのは、こういった強い憧れが下地になっていたことはいなめません。
 日本人とプラチナとの幸せな関係は、あたかも戦後の、しかもここ最近始まったばかりのことのように錯覚されがちですが、実は、100年もの長い間をかけて、育まれてきたものです。
 プラチナが強烈なイメージ喚起力を持っていた明治時代から、優れたデザインと技術によって和装に取り込まれ発展した大正時代と昭和初期を経たことで、現代の日本人も広く深くプラチナ・ジュエリーを愛するようになりました。
 明治維新以降の日本の近代化とちょうど重なるプラチナ・ジュエリーの歴史には、日本人の美意識が新たな形をとっていく一つの歴史を見ることができます。

 (注) このコラムは当社のものではありません。2000年10月に宝飾業界紙に発表されたものです。うっかり筆者名を登録しなかったためどなたのものか不明ですが、著作権は当然その方に帰属します。一般の方々にとって有用なものだと思い、加筆し転載したものです。他社でもこのコラムを基にしたと思われる年表が作られていますので、ジュエリー関係の雑誌にも掲載されているのではないかと思いますが、現段階では筆者不詳です。著者の方からのお申し出をお待ちしております。

お支払い方法 現金、振込、代金引換郵便・宅急便、デビットカード、ショッピングローン、クレジットカードがご利用いただけます。
なお、クレジットカードとショッピングローンでのお支払いでは手数料はお客様のご負担とさせていただきます。
J-Debitゆうちょ銀行MUFGジャパンネット銀行ヤマト代引郵便代引JACCSDCカード協同カードNICOSUCカードUFJカードVISAMasterCardJCBAMEXDiners

当ホームページ内の画像および文章の無断引用、掲載は固くお断りします。Copyright ©Takara Kiho Co.,Ltd. All rights reserved.