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 4.ジュエリータウンの生まれるまで

 御徒町駅周辺に2000ものジュエリー関連業者が密集しています。
どうしてこんなに多くの業者が集まるようになったのか、よく聞かれます。
その歴史全体を知る人が少なくなってきましたので、ここに書きとめておきたいと思います。

江戸時代は職人の街

 日本橋と浅草という江戸時代の二大商業地の中間にあった下谷(現在の台東区上野地域)から小石川(文京区)にかけて、そこに納めるための品物を作る様々な職人さんがいました。現在でも伝統工芸の職人さんが大勢います。なかでも皇室御用達の傘を作る職人さんは有名です。

 その中には簪(かんざし)や櫛(くし)などの小間物(こまもの・アクセサリー)を鼈甲(べっこう)、象牙、珊瑚や銀などで作る職人さんや、仏具の職人さんがいました。特に、明治に入ってから廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)の流れにあって仏具職人は神道用具や小間物の職人に転向しましたし、刀剣の装飾を作っていた錺(かざり)職人も小間物や宝飾品へと対象を変えました。

ジュエリーも時計も貴重品

 小間物(costume Jewelry)は安価で庶民にも手が届くものでしたが、本当の意味でのジュエリー(Fine Jewelry)は高価なものでした。小説「金色夜叉」の冒頭の一節に新年カルタ会に集まった女性達が主人公・宮の着けているダイヤを見て「ダイアモンドよ」と口々に囁き合うシーンがあるほどです。

 明治になってから普及しはじめた腕時計や懐中時計も現在では考えられないほど高価でした。そして時計の構造がまだショックに弱く、ちょっと落とすとすぐに壊れてしまうため大切に扱われていました。また、眼鏡もなかなか貴重な品物でした。
 そこで、高価な時計や眼鏡とジュエリーを扱うのは修理技術のある時計店ということになりました。

 その時計店に品物を卸す問屋は品物ごとに、時計は時計問屋、眼鏡は眼鏡問屋という風に分かれていましたが、ジュエリーの専門問屋があったわけではありません。太平洋戦争前まではジュエリー専門問屋が多数存在できるほどジュエリーは売れませんでした。時計バンド問屋が副業として取り扱っていたのが普通でした。

時計バンドは靴の余り革で

 戦後しばらくの間までは時計店では腕時計本体と時計バンドを別々に仕入れ、自分で組み合わせて販売していました。その時計バンドは牛革製がほとんどで、靴の型を取った余り革を材料としていました。

 靴の問屋は現在でも歌舞伎の助六で有名な台東区花川戸という隅田川に面した場所に集中してあります。この付近で皮の鞣し(なめし)作業が行なわれていたからです。当然のことながら皮革バンドも台東区で作られ、問屋も台東区に集中していました。

戦後の歩み

 太平洋戦争直後は物資が極端に不足していて、あれば何でも売れる時代でした。
 困窮した家から売りに出された時計やジュエリーは業者の交換市で競りにかけられました。また、贅沢品の輸入は認められていませんでしたので、時計は密輸入されB時計と呼ばれていました。

 交換市で活躍したのが旗師(はたし)と呼ばれる人達です。この人達が中心となって作った組合が全国宝石卸協同組合で、その鑑別部門が(株)全国宝石学協会でした(1986年設立、2010/10/29倒産)。
 台東区内でも様々な交換市がそれぞれ毎月決まった日に開かれていました。問屋はそこで仕入れた商品を抱えて地方の時計店に売りに行きましたが、売るというよりも配給するといった感じで、完全な売り手市場でした。

 そのうち、地方の小売店も問屋が来るのを待っていられなくなり、仕入れるために上野に来るようになりました。 当時、問屋の多くは現在の東上野1丁目を中心に集まってはいたものの、台東区内に飛び飛びにあるため、仕入の効率が悪く、何とかまとまった問屋街にならないものだろうかという要望が多く寄せられるようになりました。
仲御徒町問屋連盟結成を知らせる業界紙
 そこで、時計関係の問屋有志12社が協議し、戦災で焼けて空き地が多く上野駅にも近い御徒町駅前に集まろうということになり、当社も創立メンバーとして参加して、昭和30(1955)年11月21日に「仲御徒町問屋連盟」を作りました。創立メンバーは石川商店(時計バンド)、清川商店(眼鏡)、銀杏商会(時計材料)、佐藤商会(時計)、宝商会(時計バンド)、春木眼鏡、フカシロ(喫煙具)、堀田時計店、松井時計材料店、丸菱商会(時計バンド)、山田時計店、ワクイ商会(時計バンド)です。これがその後「仲問連協同組合」になりました。

 御徒町駅前から御徒町公園にかけての一帯には戦前から自転車組み立て工場が多くありましたが、戦後のモータリゼーションの進展とともに姿を消していきました。北上野一帯がバイク街になっているのがその名残りです。
 因みに当社はブリヂストン自転車の跡地を買い取りました。売り主はなんとブリヂストンの創業者・石橋正二郎氏でした。

 時計が実用性一辺倒からデザイン重視に変わっていくとともに、メーカーは本体とバンドを一体化したデザインを取り入れるようになり、当然のことながら時計バンドの売り上げは落ちていきました。時計メーカーの力がついてくるとともに、過当競争で乱売していた時計卸もメーカー主導で合併させられ、最終的にはセイコーはセイコー時計販売の一社になり、シチズン時計の卸も同じ道を辿りました。

 昭和30年(1955)から始まった高度経済成長は、特に昭和40年以降になるとジュエリーのような贅沢品も爆発的に売れはじめました。

 本業が苦しくなった時計バンド卸商や時計卸商は、それまで副業的に取り扱っていたジュエリーに活路を見いだし業種転換を図りました。消費の増大とそれに対応する供給サイドの増大がうまくかみ合って業者数もどんどん増えていきました。

ジュエリータウンおかちまちの誕生

 戦前、戦費を調達するために贅沢品に物品税を課していましたが、物品税は戦後も残り、平成元年(1989)消費税が導入されるまで続きました。

 ジュエリーにかかる第一種物品税は小売段階で課税され、業者間取引には課税されませんので、税務署が発行する業者証明書が必要でしたが、昭和55年頃になると下谷税務署(現在の東京上野税務署)管内ではなんと1400枚もの証明書が毎年更新されていました。

 その頃から営業所然とした旧来型の卸店舗はショールームへと変貌するとともに、指輪中心の卸商ばかりでなく、ネックレス、空枠、ダイヤモンド、真珠、裸石などの専門卸商やメーカーが次々と開店しました。その結果、御徒町に来ればどんなお客の要望にも応えられると小売店の間で評判になり、来街する業者が更に増え、業者も競って御徒町に出店するという具合にどんどん業者数が増え、御徒町を経由して出荷されるジュエリーは、最盛期には全国取引額の2/3、上野5丁目(JR御徒町駅東側)地区だけで1000もの業者がいると言われていました

 街作りと共同セールの開催を目的として、昭和62年(1987)9月、JR御徒町駅の東西、台東区上野5丁目と3丁目のジュエリー業者159社が集まって「ジュエリータウンおかちまち」(略称・JTO)が設立されました。当社も創立メンバーです。JTOの設立が契機となり、台東区からもジュエリーが地場産業として認められるようになりました。

 平成元年(1989)4月に消費税導入の代わりに15%の物品税が廃止されると、折からのバブル景気もあり、ジュエリー業界には異業種からの参入が相次ぎました。ジュエリータウンにも卸やメーカーが相次いで店舗を開設し、最盛期は蔵前橋通りに近いところまでがジュエリー店になりました。小売店も増えてきて、駅前の店舗家賃は銀座を凌ぐとも言われるまでになりました。


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